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普遍性と、繋がりを巡る現代的な戦争の物語
一時期、頭のいい人は文脈力がある人のことだと唱えていた人がいた。 すれ違いが何故起きるか? それは、それぞれの持っている文脈が違うからだ。 置かれている立場環境で持っている文脈は違う。近親者同士でさえ、すれ違いが起きるのだ。 どこに文脈の共通性を持つかと言えば、似たような本を読み、似たような音楽を聴いていると言う現代でほとんどないと言っていいところに求めるしかない。 流行り物を追いかけていれば、ある程度そこで共通価値観は求められるかも知れない。 ミーハーが嫌がるのは、文脈が違うそれることを、恐れるのです。 人間の価値観身振り手振りに普遍性を求めると、私の感覚だと古典に求める。 古代から、ここでこうすると言うことはこう言った心理的な働きによるもので〜。 しかし、ミーハーの価値観でいうとそれは違う。 こう動いたのは、こうこうこうであって、そう捉えられることはとても心外なことで〜 共同価値観が持てないということに、人と人が繋がれない。繋がりにくいと言うことの問題がある。 吉本隆明は、共同体というのは幻想なのだと、共同幻想論を唱えた。 立川談志だと違う。弟子に自分と同じもの同じ価値観を教えようとする。 俵万智さんの詩を読んで、吉本さんは、なんでこう言う詩を書いたのかが分からない、と言ったのだそう。 俵さんの持っている、文脈がわからなくなってしまったのだと思う。 あなたがこうしたと言うことは、こう思ったからこうしたのでしょう? そこに普遍性を求める時、現代心理学が今は力を持つ。しかし、常識で言うと、こう動いた以上はこう捉えられるのだから、こうでしかない。と決めつけた方がいいんです。その常識がもうおかしくなってしまって、僕も常識がないのだと思う。どこに繋がりを求めるか? 小室哲哉さんのタイプは、音に求めたりする。音に普遍性なんて、一般的に考えて分かりようがない。 私はもう普遍性を求めるのをやめてしまった。その場その場で気持ちよく過ごす。それしかない。 椅子に座ると気持ちがいい。お箸を持つことで、お箸に甘えている。ありとあらゆる文明の利器、ものに甘え、他人に甘え、一瞬一瞬に感謝して生きる。常識で言うと、甘えのカテゴリはもう少し狭い。その常識をもう信じなくなった。いじめたり攻撃したり、私にはすべてが甘えに思えて仕方がない。どう違うのか? 建前が違う。それだけだ。私にはもう建前が消えてしまった。諦めたのだ。内職をやって静かに過ごすといった消極的な生き方がいいと思った。非行に走らずに済む一つの手段として、福祉が推進する自宅内職はいい。人に逢わなくて済む。それでいてやっていると、認められることになる。履歴で落ちてしまうと、実践する場所がない。必ず出来る仕事が福祉が推進する、自宅内職。最高だ。人に逢わずに建前が繕えると言うのは、福祉が推進するもので最も良質なものだと思う。人に会いたくない。それが障害者の健全。繋がりを約束されていないのが障害者なのだから。 プロフィールに 【気になる作家たち】 安部公房、中島敦、谷崎潤一郎、フランツ・カフカ、中原中也、パウル・ツェラン、バンジャマン・ペレ、土橋治重、村野四郎、丸山薫、吉増剛造、谷川俊太郎、野崎有以…etc. とある。中島敦といえば、奇妙な作風。カフカ、安倍公房。恐らく奇想を得意とする作家にシンパシーを持つタイプ。私もこの奇想というものにはとっても惹かれる。石を売り続ける、無能の人という漫画。何故かああ言ったものに、偶発性によって人は導かれると言った哲学すら感じる。 全体のロジックや、作者の持っている文脈はとても難しい。しかし、それなのに言葉が音楽としてスッと入ってくる。この入ってくる感じが、私が思う共同体なのかも知れない。意味合いより、この入ってくるという感覚。そして意味としてはどういう意味なのか? 出だしが凄まじい。 「僕たちは何処にもいない」 私が書きそうな文章だ。それでいて、私はこう書かないと言ってしまうような。 >平民はやがて首相になるだろう。それがこの世の平等なので。僕らは常に二面性に息をする。波紋はどこにでもつながり、戦争は形に現れなくなったもんだ。 ここで私が感じたのは、作者が、現代的な戦争を、古典的な形式ばった戦争に見ていないということだ。 多くのお年寄りが語る。 若い人たちは、別の戦争を生きている、と。 少し上級なのか? 意味合いや真意を裏に隠したように、話が続いていく。何故そうするのか? そこがまだ見えないまま話を読む。 >ああ、僕たちは本当は流動体なのに、なぜか留まろうとしてしまう。留まろうとしてしまうのに嫌気がさして、留まらないことに留まったりするが、これはとどのつまり、止めどない徒労と共倒れするトマトノマドと魔の手の窓だ。ああ。 そこで見えた。つまり作者が伝えなかったものは、流動体でありながら、留まろうとしてしまう。時の中で普遍性を求め、結びつこうとするけれど、それは難しい。 それは普遍がないのだということ。そこで、言葉の遊びが出てくる。 >止めどない徒労と共倒れするトマトノマドと魔の手の窓だ TTTTTT…Tで揃える。整列させる。上手い。何故Tなのか? それは一旦考えるのをやめて先へ進める。 >僕はどうしても生きてしまうから、何処にもいないようにしてみるけど、きっと、知らずのうちにこの世界とぶつかって、メンチ切られて、へその緒切られて、宇宙子宮から突き放されて、ブラックホールも逃げ出すような、すべてを壊すカラクリに食われて、墓が建てられてしまうのだろう。 それだけは、僕の仕事じゃないんだけど。 最後は切ない。 僕らという言葉が何処かで虚しい。僕らの中に本当の僕らがいるだろうか? それは共同幻想ではないか? 弾き出され、押し出されて、個へと向かう。それが一つの死なのかも知れない。しかし、それは終わりではなく、始まりなのではないか? 人間誰もが追う使命責務。それが仕事という言葉で比喩的に表されている。 そこは難しい。 仕事が仕事である以上、フィクションの世界の比喩ととれば理解は出来るけれど、取り方によっては、どう取るか? 映像的な捉え方をすると、なんとなくなものでいいんだけど、そのなんとなくに気持ち悪さを感じる思いもある。だけどその、なんとなくがあったほうがいいんだよな人生って。 言葉が面白い内容が面白い。詩はそれで良いと私は思っている。普遍的な詩、それは一瞬一瞬を生きているうちはわからないものです。 ところで、何故一旦考えるのをやめて先へ進めると触れた箇所で、指摘したフレーズは、Tで揃えたのか? もっと言えば『と』で揃えたのか? それが感覚なの。そこは追求しないほうが良いというのが私の見識です。 多分私の見識では、作者がドリフターズの『早口言葉』が好きなのだと思う。
普遍性と、繋がりを巡る現代的な戦争の物語 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 540.8
お気に入り数: 1
投票数 : 0
作成日時 2024-01-09
コメント日時 2024-01-11
作品の批評、ありがとうございます。とても楽しく読ませていただきました。 一点、お応えできるところがあるとするならば、「文脈」や「共同性」について。 私たちの文脈は、確かに環境や経験によって持つものがかなり異なると思います。しかし、それにより共同性が保たれなくなるかと言われると、そうではないと考えています。 私は、その希望を詩に込めているのかもしれません。どんな環境にいても、どのような経験をしている人にも、万人に響く詩がある。それが共同性の兆しであると。私たちはその詩を読むことでつながれる、と。 ただ、それは逆でも同じことで、万人に響かない詩を目指すことでも可能だと思います。たとえば、Tで並べる箇所は何なのでしょうか? 誰もが納得する答えが出せるのでしょうか? 私は閉口します。すると、読む人たちが安心して、それぞれの考えを持ち寄って議論し始められる。そのつながりを、私は望んでいます。 「言葉が音楽として入ってくる」 これは、私にとって一番嬉しいお言葉です。ありがとうございました。
2ユーモアを忘れてしまうと良くないと思うんです。 入ってくる人と入ってこない人といますね。ほとんど入ってこなかったりするんですけど、従うとはそういうことですから。この詩はいいと思いました。
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