いつからか
涙があふれてくる、まさにそのとき
なにかすばらしい一文を自分は思いつきそうだと、そんな気がしてしまい
それで実際に思いついたこともあるが
そのことは、どこかいやらしく
とても惨めであった
それは自分の魂が生き延びる抜け道であった
私は私である
私は生きている
かつて見た夢の人々を演じることにより
私は生き延びてゆく
二人きりにするために
私は一人でタクシーに乗った
大勢の人々が淀川の会場を目指し
私とは逆の方に向かっている
いつかアメ村の古着屋で買ってもらったデッドストックのリーバイス501は
まだ硬く青い
わけもなく
はなればなれに、なって
私たちは
しかし考えることをやめない
私たちは愛の次に
彼らを考えてみることにしたのだ
私たちは朝、目を覚ますたびに
彼らを忘れてゆく
天国の子どもたちが
ただひたすらに泣き叫んでいる
過去を逃れて
行き着いた海辺で
それまでのいろんな
ショックで話すことができなくなっていた妻が
「ありがとう、ごめんね」
と
北野武が演じる
元刑事である夫の
目を見て初めてつぶやいた
それから銃声が一つ
もう一つ、聞こえてくる
北野武の『HANA-BI』はこのようにして終わってゆく
一人はいつも許している
一人はいつも許されてばかりいる
それが二人の孤独であった
二人は
すれ違って
ついに振り返らない
ただ、そこの
一番遠いところで
みつめあっている気もする
通天閣のあたり
花火の音が聞こえる
私を降ろすと
タクシーは
夜の人々のもとへ向かっていった
わけもなく
はなればなれに、なって
私たちは
しかし考えることをやめない
私たちは朝、目を覚ますと
夢と共に
彼らを忘れていた
彼らが私たちをみつめている
みつめていることを
私たちもみつめている
許しもなく
責めの苦しみもなく
悲しみの顔と顔を、いまは合わせている
私たちは悲しみと出会う場所で、悲しみを永遠に忘れていた
どうして
「ごめんね、ありがとう」
じゃないの
若者たちは酔っぱらって
その内の一人が店の前で酒をしこたま吐き散らかし
ひさしぶりの、花火大会だったから!
と、笑ってまた店の中へ帰ってゆく
どうして一方は誰かを許していて
いつも一方は許されてばかりなのか
愛は
そうではないにしても
愛を求めてゆくことだと
私は知っていても
(いや、知っているからこそ)
私は誰かを許すことはできないが
本当に
心を一つにするならば
祈りは聞かれると
私は知っているから
私は愛を
祈ることしかできない
酔った若者たちを観察していると
生きていることが急に、つまらなくなって
それでも、どうしようもなく
歩き続けたのは
彼ら三人が
ゆっくりと二人になり
二人が一人となって
その一人と
一人の私が
どこか遠いところで
見つめあっていた
そんな気がするからだ
私たちは
そして彼らは
いつだって
天国の子どもたちだ
だからただひたすらに腕を大きく伸ばして
泣き叫び、喜んで求めてゆく
生き抜くように逃れてきた
海辺に銃声が一つ
そしてまた一つ、聞こえてくる
天国の子どもたちは
腕を伸ばし、泣き叫び
喜んで求めてゆく
作品データ
コメント数 : 7
P V 数 : 1497.6
お気に入り数: 2
投票数 : 1
ポイント数 : 0
作成日時 2023-08-15
コメント日時 2023-08-25
#現代詩
#縦書き
項目 | 全期間(2024/11/23現在) | 投稿後10日間 |
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前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
| 平均値 | 中央値 |
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前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
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閲覧指数:1497.6
2024/11/23 18時47分43秒現在
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こんにちは。 北野武の『HANA-BI』を軸に、愛の或る形を描いているようですね。 「一人はいつも許している 一人はいつも許されてばかりいる」 そんな形の愛の哀しさを様々な表現で表しています。でもその哀しさは経験した者にしかわかりません。それ故 「私たちは そして彼らは いつだって 天国の子どもたちだ」 ということなのでしょうか。 やさしい文体でたいへん読みやすいのですが、2点ほど提案があります。 「天国の子どもたち」という比喩ですが、やや唐突な感じがしますので、詩の内容とこの比喩との間に何かもうワンクッションおいた方が、読み手がよりスムーズに入ってゆけると思います。 また、特定の映画作品を挙げて展開してゆくのは、イメージを容易にする利点があると同時に、その映画を見ていない人を排除してしまうという難点もあります。ですから、どうしてもその映画を軸に書きたいと思うのであれば、読者を狭く限定する覚悟が必要でしょう。(言うまでもないことかもしれませんが・・・) それはともかく、現代特有の寂しさの溢れた作品ですね。
0コメントありがとうございます。 >現代特有の寂しさの溢れた作品ですね。 ありがとうございます、それってとても、現代詩って感じしません? 天国の子どもは、唐突でしたでしょうか。確かにそう思われるかも。しかしやや強調的に打ち出そうとそもそも考えていたのです。しかしそれが否定的に捉えられる危惧もありました。難しいところです。受け取り方は人によりけりだと思いますが、しかしどれだけ多くの人と同じイメージを共有できるのか。そのところをこれからも精進します。 ありがとうございます
0以下のコメントは、再投稿しました。 昨日しばらくの時間、サイトはシステムに障害があったようですね。 障害発生前、あなたのコメント欄には、湖湖さん、私、yamabitoさんが、作品にコメントを寄せていたことをお伝えいたします。 以下 YUMENOKENZI から こんばんは 何度か読んだ … そして読むたびに、そこから悲鳴が聞こえ、切なくなって泣いた … 詩は途中で転調しては、また元に戻ったりと、場面を交差させながらも、たった一つの哀しみのワードを、私の心に刻みつけた。「天国の子どもたち」って… 様々な場面が、たくさんのこどもの顔が、次々と目に映し出されていく。どの子も笑ってない顔が。 子どもたちが求めているのは、愛されたいだけ。ただ抱きしめられたいだけなのに、それさえ奪い去っていく世界が、現実にあることを、あったことを、あなたの詩が、私におしえてくれたのだと思った。 読めてよかった。ほんとありがとう。
0ありがとう。他の方のコメントの件もありがとうございます。 いつも読んでくれてありがとうございます。ただそれだけです。 あなたの読み方は、とても美しいです。ゆえに壊れてゆくこともあると思います。無垢なのです。でも、それをずっと守ってほしいと、思い上がったような言い方ですが、伝えておきます。 もう、ずっと、僕らは子供たちなんです。
0これからも色んなことがあると思います。嫌なこともたくさん。でも、あなたがこの詩を、読んでくれたことは忘れません。 あなたは私の詩から何かを読み取り教わった。私はあなたのその言葉を読んで、あなたも私も詩が好きだと思い返すことができた。ありがとう。
0うろたんさん ずっとそのハンドルを忘れず、こうしてあなたの詩を読む時も、コメントを書くときもそう、お呼びしながら今日まできました。 あなたの詩たち、あなたという人を通して、私はここビーレビで、凄まじい経験をしました。 ここは、詩へのコメントの場ですから、その時そのときに感じていたこと、思っていたことを書けませんが、匿名でなく、時々あなたが上げられた詩を読み、たとえそれが創作であっても、あなたの本当を知りたいと願い、読んでまいりました。 あなたが今、このように率直な言葉をくださり、私は涙が止まりません。 すべて報われた思いです! 忘れません。 心から感謝します。
0その、タイトルをパッと見たときに その、子供を亡くされたことを切々語りかけていくのかな と思いまして 実際、イントロからそういう風にして読んだのですね その、たとえ、その涙でよい詩句が浮かんでも 死んでしまった子供たちの前では欺瞞に思えるとか傲慢におもう 僕もそういう経験があったので、そういう作品なのかなと 思ったのですけれど 後半、ビターな方へいかない。 「天国のこどもたち」って語として非常に明るいというか聖なるもののように思える。 そうして、ああ、これはニール・ヤングとかが「俺はこどもだ」と言ったり 路上のディーンが確か・・・こどもに例えられたフレーズ、、、うーん 「路上」にそれはあったようなないような・・・そういうタッチなのかな と思ったのですね。 そうして二つの解釈が混在し、うーんと考え込んでしまったわけです。
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