作品投稿掲示板 - B-REVIEW

田高節


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まりもさん 詳しくお教えいただき、ありがとうございます。 アメーバのような有機体というお言葉を拝見しまして、おそらく、現代詩には固定的な定義があるというよりも、詩の本質を探求する過程そのものであり、別角度から言えば詩史の流れに参加するかどうかが、個々の詩が詩であるかどうかを、また作者が詩人であるかどうかを決めるものなのだろうと感じました。定型がありませんから、定型詩以上にその側面が強まるのであろうと思います。外れていたら申し訳ないのですけれども、当たっているとすれば哲学の「哲学することを学ぶだけだ」というのに似ていますね。 >そうした・・・その人が感じ取った「詩情」を、その人の独自の表現で表そうとする、その試行錯誤や紆余曲折の中に、詩を産む楽しみも苦しみもある、のかな・・・と思っています。 ありがとうございます。なるほど、なんだかちょっとピンときた気がします。 例えばですけど、 いったいわれわれの人生をなんだと思っているのか しかもよりによって卒業式で 私は真意をはかりかね混乱したまま式を終えた これを、 ワレワレハ機械ナノダ 型番ハサンノサンノニジュウナノダ 隣ノ男ハサンノサンノニジュウイチダ マエノ女ハサンノニノニジュウナノダ 右手ヲアゲヨト指示ガアレバ 右手ヲアゲルノガワレワレノシゴトダ ソノヨウニシコマレテキタノダ ーー今初めて知ったよ! アッデモカラダハソノヨウニナッテイルナ ソウワレワレハ機械トシテシコマレタノダ ここで黙って心を捨てれば ワレワレハ真ニ機械トナレルノダ お断りだよそんなもの けれどもとっさに何ができるということもなく そのまま卒業式は終わってしまった 椅子を蹴って出て行けなかったという事実だけが残った とすると、、、もう少し伝わりやすいかもしれませんね。 たぶんそういう工夫の過程だとおっしゃっておられるのだと思いましたがいかがでしょうか。 ちなみに上段の話の続きで詩史に対する態度なのですけれど、技量はいったん棚に上げると、私自身はあまり言語の極北のようなものを目指す詩は、人はともかく自分ではあまり書きたくないなと思っていて、むしろなるべく平易な方がいいんじゃないかなと感じています。 理由はいくつかあるのですが…主として自衛かもしれません。実は極めて体調が悪い時期に書いた詩らしいものでは、ひらがな文とカタカナ文とを交錯させたり、文字の大小を入れ替えたりということを含め、今回よりよほど表現を工夫していたのですが、それで自家中毒を起こして余計体調を損ねてしまったのでした。なので身体に触る以上根本的に書きたくない、書けないというのがひとつ。 もう一点、あまり方法的な理論から詩を書きたくないというのがあります。脱構築とか云々とか、まあちょっと前の流行思想としてそれなりに勉強はしたんですけど、これは違うなと思いまして。理由を細々書くと長ったらしくなるのでやめておきますが、要するに人間が存在との関係で存在者のひとつに抽象化されてしまって、歴史のなかで生きる人間が事実上捨象されてしまうなと思ったのです。それで、よそ様がする分には好きになさったらと思いますけれど、少なくとも私のしたいことではないなと。 というわけで私の中では難解な詩を作りたいという意欲が個人的な動機からも理論面からも消えてしまうのですが、より積極的には、私がふと気づく点がたいていの場合、時代状況が産出する矛盾についてなので、内面から語るにせよ、あまり難しい表現は似合わない主題だと思うからです。 ですので、今後はなるべく平易に、かつ詩情が伝わるような工夫をやっていくというのが目標になるのかなと思いました。もちろん、そのなかでもしかするともっと複雑な表現をくふうしていくことになるのかもしれません。 ということで、お答えになっているのかどうかちょっとわからないのですけれど、ひとまずお伝えいたします。 (ときどき人に話すこと)

2017-09-07

拝見しております。 花緒さん >逡巡する俺と、ただ従順に従うだけのアホの大衆 さすがにそんなたわけた内容で詩を書こうなどとは思いません。 私としては、一主体が何らかの思想を持つ過程(それはもちろん私に限りません)に関して花緒さんの物の見方に大きな限界があることを感じますが、ともあれどう受け取られる場合があるかがよくわかりましたので、おおいに勉強になりました。ありがとうございます。 ハァモニィベルさん 枠という言葉を私が使ったために却って紛らわしくなってしまったようです。すみません。 ともあれ発想の出発点に違いを感じます。たぶんハァモニィベルさんは「枠」として生老病死のようものを、またそうした枠に規定された存在としての人間をお考えなのだと思いますが、私が考えているのは歴史社会の規定を受けて生きる人間なのでした。 どちらが正しいという議論をしても当面始まらないと思いますので、この辺でいったん打ち切っておきます。 次回は工夫しますね。それではまた。 田中修子さん 田でん高節こうせつ、です、はい。すみませんなんだか。 私のほうでも馴れ合いをしてしまったかもしれませんね。反省します。 せっかくのご縁ですから、よりよい良い作品を作りたいと思っています。 (ときどき人に話すこと)

2017-09-05

こんにちは。ご意見拝読しております。 嬉しいかな私の言いたいことは田中修子さんのコメントでほぼ尽きております。 強いて言えば私の名乗りは田 高節だということでしょうか笑。秦末の斉王、田横の事績から取ったものです。でもそんなことは大したことじゃありません。むしろ高田節という名乗りもなかなか良いですね。これからそっちにしようかな。 さて前回は控えたのですけれどやはり少し言うべきかと思いましたので批評に対するコメントをさせていただきます。 花緒さん 一件まずは質問させていただきたいです。 >本作、<社会からの圧力に飲み込まれず如何に生きるべきか難しいよね>という一行に要約可能のように思います そのような側面のある作品であることは全く否定しません。しかし私には、花緒さんご自身の視点において言葉と実質とが乖離しているように見受けられました。花緒さんご自身は、そのような点について、観念上の思考は結構です、実際にご自身の問題としてお考えになったことがあるのでしょうか。それによってその先お話しすべきことも変わってくるかと思いますので、まずはお伺いします。 三浦果実さん >言いたいことを取消しながらも、最後は読者へ投げてしまうところが、んんん。 楽しんでいただき嬉しいです。 ただ私が目指したのは青年の主張でもニヒリズムでもなかったです。私がもはや読者に投げざるを得ないと感じている理由が、私としてはもっとも汲んでほしいところでした。 中学時代云々の聯、とくに民主主義と社会の仕組みという言葉で対比的に表現したつもりだったのですが、通じにくかったでしょうか。 ハァモニィベルさん >そうとしか生きようのない枠の中で、自分にしかできない生き様を必死で晒している人間 この部分が大変引っかかりました。三浦果実さんへのコメントとも重なりますが、私としては作品中の言葉で言えば「変えられないものなんて無いんだよ」という体験を持った上で出発していますから、どのような「枠」とて、もし誤っているならば手段を尽くしてうちこわし、新たな秩序を打ち立てようとします。 そういう過程で何度も訴えては失望を繰り返しつつなお良案はないかと問いかけているのですが、伝わりませんでしたか。それとも何事かを変えた経験が一切おありではなく根本的に理解できないというようなことでしょうか。 まりもさん ご助言ありがとうございます。ただ今回は感情は交えないことにしていたのです。偶然ですが以前感情的なものは作ったことがありますし、何よりこういう話題ですから単純に嘆いたり感情を伝えたところで何一つ変わるわけではありません。 >〈いったいわれわれの人生をなんだと思っているのか〉という独白部分は、…書かなくても伝わる。 まりもさんの感性はまともだと思いますが、私の体験からすれば大多数は何も思わなかったのでした。私はまりもさんのような読者が大多数であると想定できるほど人間の精神を信頼していません。大多数はどうあれ少なくとも私は幸か不幸かそう感じ得たということを確定しておきたかったのです。それが本文を加えた事情でした。 さてここからは詩とは何かというような話に立ち入るのですが、例示された表現を拝見しますに、現代詩というのは直接的な体験を一義的排他的に尊ぶのでしょうか。私は普段実証研究に関係しており、そのせいもあって時間を反省の積み重ねとして重層的に考えており、作品中にもそれが反映されていると思うのですが、それは詩作品としては不十分と観念される材料になるのでしょうか。 田中修子さん >「…俺どうしたらいいんだよ」みたいな病気寸前の叫び、に聞こえました。私には。 活動というほどの活動をしたわけではなく、目の前の問題を可能な限り片付けてきたにすぎませんが、はい、その通りです。答えがあれば良いのですが、なかなかどうにもなりませんね、お互い。 >おそらく、おおくの読者は、ああいう世界のなかで陥る孤独というものを知らないわけですし、ふつうは知らないものだそうです。 そうなのですね。詩をやっておられるほどの方で、しかも「どうしようもなく生きていく君の世界の経験が」云々、ますます多少の出会いがある可能性はあるかと思ったのですが、もし大多数は結局そうだということであれば、残念なことです。 >「立ち竦んでいる人」だけを集めて政治グループを作って…非常に愉快かもしれませんね。 まあおそらく、途中でお互いに冷めてきてしまってどうしようもなくなるでしょうね笑。因業なものです。 (ときどき人に話すこと)

2017-09-04

皆さまはじめまして。田高節と名乗らせていただいております。 ある方に自作の現代詩をお見せしたところ、こちらを紹介されて参りました。 コメントを拝見しております。コメントがすぐいただけるのは嬉しいことですし、それになるほどそう受け取られるのかと実に興味深いですね。 実は普段は漢詩ばかり(素人の趣味ですが)作っておりまして、あちらは古典にもとづく約束の張り巡らされた世界ですから、やはり漢詩と現代詩とではそれぞれ要領が違うのだななどと感心することしきりです。 【注:以下は内容に関するコメントです】 正直に言えば、これほどまでに伝わらないものかとびっくりしています。 実は私がここに投稿する気になったのは、「どうしようもなく生きていく君の世界の経験が、文体で、個性で、テーマだ」という言葉を見たからでした。ですから今回は自身の体験を直截にぶつけてみようと思ったわけです。他のことならまだしも、この件は身も蓋もない事実ですから、散文調になっても事態に合わせて作るのがよかろうという判断です。 もちろん技量の拙さはありますが、それでもどちらかと言えば過剰に読み取られてこちらが「そこまで考えてはいなかったです」と言うような流れを想像していました。ところが案外そうはならない様子なので「ありゃ…?」となっています。 怒りとか失望とかが先立っているものなので…軽侮とさえ読まれると…解釈は自由ですからそれでも構わないのですが…まあ、多少残念ではありますね。うーん、どうすればいいんだろう。 (ときどき人に話すこと)

2017-08-29