作品投稿掲示板 - B-REVIEW

#


投稿作品数: 0
総コメント数: 1
今月は0作品にコメントを付与しました。
プロフィール
記録
プロフィールはありません

#の記録 ON_B-REVIEW・・・・

通りすがりのロム専です。 Twitterで拝見して、酷評しても良いということでしたので、酷評致します。 誤字脱字、ご容赦。 ***** 「惑星」というタイトルがまず安直で不安感を掻き立てる。 惑星の上にすまう人々の歴史、営み、諍いを家族関係や身体性を喩として用いた作品と読んだ。 選語やイメージの連結が陳腐でかつまた作中話者の安易な感傷に終始しているこの作品は、とても良い作品だとはいえないと感じた。 「はは」と「ほほ」などの言葉の形に注目した点や、俯瞰的な視点から語られる部分は興味をもったが、うまく活かされていないと思う。 以下、読書メモ。 ***** 【初聯】 >そのほほ という表記の「その」と >そのはは の表記は単純に語形を合わせている遊びに見えるが、同じ音に導かれた対象のベクトルが違うところが興味深い。 しかし、同じ方法で「くちびる」が向かう方向、向ける方向のベクトルを示しているので、いささか煩く感じる。 >いとおしげに という印象は、作中主体の印象だが、視点が「はは」に寄り添っている点に注視して読まなければならない。 >細かく鋭く この観察の「鋭く」という選語は独特である。何に対して鋭く、なのか。頬が裂けていく様を「細かく」裂けている、「鋭く」裂けているの並列で並べているが「鋭く」避けるという表現は珍しい。「鋭さ」に内包されたのは「ほほ」ではなく「心」であり、それはははのくちびるに細かく生えた棘=ははの言説によって細かく裂けた対象者の心、と読むことが出来る。 ははの視点に寄りながら、対象者の心を言葉で裂いている様を俯瞰的な視座から見ている。脱はは(=母性からの逃走)を予感させる、つまり対象者は「はは」の「子」である可能性を忍ばせる、初聯である。 【2聯】 初聯で示した「はは」と「子」という構図から、イメージの連結によって家(=家族)像を想像させる。 2聯はなんといっても >ミズノナカニ に注目するべきだと思う。 「ミズノナカに」ではないことに注視したい。格助詞「に」をカタカナに異化することの意味を慎重に考えるべきであろう。 単純に対比されているのはつづく >あるものだと であるので、「あるもの」との相互強調を狙ったと考えるべきか。 「ミズノナカ」という場所だけでなく、格助詞をつけることにより目標点、到達点をより強調しているのではないか。 「家」は「ミズノナカ」を目指して、到達した、ゆえに「ある」というのが正しい読み方だろう。 到達しているのにも関わらず「君」は諦めている。その動的な移動を拒否したい客体が「君」として存在する。2聯までの状況では「君」が「はは」なのか、それとも「はは」の行動の対象者(=子)なのかは不明である。 2聯後半部分は「君」に関する作中話者の感傷であろう。 >肌に触れればすいこまれるように冷たい 皮膚感覚である「冷たい」は動作主体が対象者に働きかけることによって生まれる感覚の感想である。作中話者が「君」に触れているのか「はは」が触れているのか初聯に出てきた「はは」の対象者(あるいは子)が触れているのかは不明だが、感覚としての「冷たい」感想は、この聯以降のイメージを支配する働きを持つ。 「君」は家がミズノナカニあることをはなから諦めている。(そしてその肌は)冷たい。冷たさは「ミズノナカニ」ある「家」への感傷としても機能している。 冷たいから想起される負のイメージが、ミズを或いは「見ず」(=無関心)と読ませることも可能なのかもしれない。「見ずの中に」という無関心の温床となった「家」すなわち家族関係の低温度化(薄い関係性への変化)への諦念が「ミズノナカニ」の格助詞「に」をカタカナという音記号へ置換した理由かもしれない。 【3聯】 >無数の傷をおおう この作品は同音の連なりをひらがなに解いて表記する事が多い。その目的は黙読時に音を意識させる作意だけなのか。この件に関しては最後まで読み進めてから考える。 (註:読み進めた結果、放置しました) 「無数の傷」の傷は初聯で「はは」につけられた傷なのかもしれない。「くちびる」を言語の発生装置として考えた場合、「ほほ」は言語を発生させる以前に通過する器官であるとも考えられる。「ほほ」を裂くのは「はは」の言説によって対象者の言説を言説として具象化する前に霧散させる為、と考えることも可能ではないか、と振り返って思う。 しかし、その発想には齟齬が生まれる。 >透きとおった肌も 「細かく」「鋭く」裂かれたはず「ほほ」は「ほほ」としての機能を失わされているのではないか。 とすれば考えうるのは2聯 >青年になっても壮年になっても という時間経過を示唆する言葉であり、時間の経過によってその傷が癒えた(表面上は)ということなのであろうか。 あるいはラングとパロールの関係性よろしく、裂かれても「ほほ」は「ほほ」という細かく鋭くされた「ほほ」の状況を維持しているのか。 とても興味深い。 >風化して風に舞う ごの重複は分からない。風化とは風による侵食であり、風がそこになければそもそも風化は怒らない。それをあえて「風に舞う」とする、無意味さはただ行の字数を揃えたいという欲求の現れでなければ何なのだろうか。 >はなびらのように 前行「舞う」からのイメージの連結だが、ありきたりすぎてつまらないだけでなく、意味として植物性の存在が希薄であるために飛躍、それも失敗した飛躍と考えられるのではないだろうか。 >地と空の境目に >すいこまれていく 手垢のついた陳腐な言葉の連続であり、かつまたそのことを効果的に利用していない駄行だと一読して感じる。 「地」の存在をはじめて表出させる。「家」は「地」に建つべきものであるが、「ミズノナカニ」という表現を強調する文脈で「地」の存在の意義は果てしなく軽い。 同様に空もはじめて表出する存在である。 ここでタイトルを振り返ることになる。 「惑星」 どの惑星を指しているのか分からないが、「地」「空」「ミズ」と揃えば地球と読むのが自然ではないか。翻ってこの「惑星」というタイトルがあるから、流れを陳腐化した「地」と「空」を表出させることができる。しかし、活きていないと感じる。陳腐化された文言がそのまま利用されているからだ。 先述2聯 >青年になっても壮年になっても から、「惑星」の歴史(人々の営み)に主題が集約していく。 しかし、本当にこの聯はつまらない。 【4聯】 >露わになった傷 風化の結果として顕となった傷を今度は指を使ってなぞる。「なぞる」という動作を「読む」に置き換えて説明する。 ここで「私」という作中話者がはじめて主張を始める。「指」は「私」の指であろう。「仕事」である認識は個人の主観である。また敢えて「仕事」としていることで作中話者の動作や意図を「読む」ということに収斂させている。 ここまでの3聯をつかって「私」が「読む」ものの描写を行なってきた、と考えるのが妥当だろう。もっと凝縮された構造にはできなかったのか、疑問に思う。 【5聯】 >指先のやわらかさは >手首から先を切り落として くちびる、肌と身体的な部位を象徴的に使ってきて、仕舞には手を用いる。 たぶん、身体的な描写を入れることによって、体感や感触の記憶を読者と共有したいのであろうが、80年代女性詩の安易な模倣で終わってしまっている。 「くちびる」「肌」「指」「手首」その象徴性のどれもが陳腐化されてしまっており、かつまた、新たな解釈を加えることもなくその意味に安穏としている。 女性詩ならではの避難所に結局逃れているだけで、「肉体」「触感」の不感症を逆に感じさせてしまう、つまらない描写。詩における身体性とはなにか、現代ならではの身体性をあらたに詩に組み込む、あるいは獲得することが必要なのではないか。 【最終聯】 >やさしく 作中話者の都合のいい感傷を押し付けて、この詩は終える。 これで、作者は満足なのだろうか? >すみれ色 という色認識から、謙虚で静かに歴史を読み解き後代へ伝える機能としての作中話者が感じられるが、この手法も手垢が付きすぎているように感じる。 水のイメージも「ミズ」から「水」に変容してしまい、また「はは」の存在を出したがゆえに「羊水」などのイメージも掻き立て、乱反射というか撒き散らされる陳腐化された「女性性」にくらくらする。くどい。 はっきり言って読んでいる途中で集中力が切れた。 選語、推敲をきちんとなされていないルーズな作。 作者は力ある方だと思っていたが、久しぶりに明確な駄作を読んでがっかりした。 (惑星)

2017-07-17